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笠間城の歴史
【築城について】
笠間城は、笠間時朝(1204-65)によって築城されたといわれています。西麓(今の笠間稲荷神社周辺)に麓城と呼ばれる居館を構え、笠間氏の拠点となったと考えられます。
【南北朝期から戦国時代】
建武4年(1337)の「烟田時幹軍忠状写」に「笠間城」の文言が見られ、史料上で笠間城の存在が確認できます。実際に山上に城郭を築き始めたのはこの頃と考えられます。
天正18年(1590)に笠間氏が没落するまで、笠間氏が城主を務めており、笠間城は長期間にわたって整備・拡張されたものと推測できます。笠間氏没落後の城主・玉生氏は、登城路の整備と町場の建設を行っています。慶長3年(1598)の蒲生秀行の宇都宮移封に伴い、蒲生郷成が笠間城主になると、佐白山頂付近の天守曲輪や登城路などの整備を行っています。
【江戸時代以降】
関ヶ原の合戦後、徳川氏譜代の松平康重が初代笠間藩主となります。江戸時代中期までは藩主が度々入れ替わりますが、延享4年(1747)に牧野家が藩主となると、牧野家の下で明治維新を迎えます。浅野長直が藩主の時代に、藩庁となる下屋敷を建設し、現在の町割の基となる城下町が完成されました。井上家の時代に、天守櫓が改修されており、牧野家の時代には、風雨によって崩落した石垣・堀の修復が行われています。
明治3年(1871)、政府に笠間城の破却を願い出て許可されることにより、破却・廃城となりました。
笠間城の歴代城主
笠間城の歴代城主は、承久元年から天正18年までは笠間氏が城主を務めていました。笠間氏の没落後、宇都宮氏家臣の玉生高宗が城主を務め、慶長3年には、蒲生郷成が城主となります。関ヶ原の戦いの翌慶長6年に松平康重が初代笠間藩主となり、以後江戸時代中期までは、小笠原家、松平家、永井家、浅野家、井上家、本庄家が笠間藩主を務めます。延享4年に牧野家が藩主となり、明治維新を迎えます。
笠間城をめぐる人物
①笠間時朝(かさまときとも)
笠間氏初代。御家人でありながら、多くの仏像を寄進し、和歌にも長けている文化人。笠間市に残る時朝寄進の仏像3躯は国指定重要文化財です。
②蒲生郷成(がもうさとなり)
笠間城の近世城郭化に関わる。天守曲輪などに残る石垣は郷成の時代に築かれたと思われます。
③浅野長直(あさのながなお)
笠間城下屋敷(現佐白山麓公園)を整備し、現在の町割に通じる城下町を整備しました。
④久保整伯(くぼせいばく)
井上家家臣。正徳元年(1711)に『笠間城記』を編纂し、笠間城を知る上での基礎情報が書かれています。