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井筒屋の歴史

【笠間市について】

茨城県笠間市は、鎌倉時代に築城された笠間城が明治の廃藩置県まで長きにわたり存続していたため、その城下町として栄えた(笠間城について詳しくは、当ホームページの「笠間城について」をご参照ください)。

江戸時代は、藩主井上正賢により小さな社であった笠間稲荷神社を現在のような大きな社にして笠間城の祈願所にした。江戸後期から稲荷信仰が増え、多くの参拝客で賑わう門前町としても栄えた。商人を中心に稲荷講という組織を作って多くの参拝客が、泊りがけで笠間に訪れるようになるにつれ、井筒屋のような旅館が多くある町となった。明治には、旅人宿兼料理店(割烹旅館)が計9棟あった。(「笠間便覧」明治42年発行)そして、人の行き交いがますます増えるにしたがい、芸者衆が200人以上いる花街としても笠間の名が関東一円に知られるようになった。

 

【江戸時代・井筒屋の創業~明治・大正・昭和まで】

井筒屋は、江戸時代天保年間(1830~43)に当時笠間の中心であった大町通りと笠間稲荷神社のある高橋町通りを結ぶ丁字路西にて、旅館として創業した。当時、笠間城の的場丸の向かいにあった坂東二十三番札所である正福寺に参拝する人々に通行手形を発行していた。

場所は現在のかさま歴史交流館井筒屋の道を挟んだ向かい側であったが、明治初めに大町の大火により建物が焼失。明治13年に木造3階建ての井筒屋旅館が佐白山を背景にした今の場所に建てられた(東京大学総合図書館から見つかった井筒屋当時の広告の掲載文による)。なお、井筒屋旅館最後の管理者からの聞き取りでは、水戸城の古材を使用しているとの言い伝えがある。明治初めに水戸城が放火にあい、焼け残った木材の払い下げをうけて、今の井筒屋旅館の建築材の一部に使われている。文献が残っているわけではないので確証ではないが、現在のインフォメーション内の檜の柱や2階と3階の吹き抜けの梁の木材などは、その時代の木材のようである。明治時代は、2階と3階の客室の外側に欄干にあったが、昭和時代になり、客室の拡張のため、欄干のある部分を取り壊して部屋にしたので、明治の井筒屋外観の写真と昭和のではその違いがわかる。写真は、井筒屋の移り変わりをインフォメーション内に展示してある。

明治~大正~昭和には、笠間稲荷神社は五穀豊穣・商売繁盛の神として県内外から多くの参拝者を集め、門前町としての笠間は、大きな飛躍を遂げた。さらに笠間は、先人たちの努力によって二つの特産品で潤った。その一つ笠間焼が、笠間藩の産業の一つとして江戸時代に興り、特に明治時代になると需要の多い生活雑器として笠間焼が全国各地に販路を築くことができた。もう一つの特産である稲田石(石英を多く含む白く美しい御影石)は、明治時代に発見され近代日本建築の素材として使われるようになった。稲田石は、日本橋、国会議事堂、最高裁判所ほか最近では東京駅の敷石としても使われている。井筒屋旅館では、そうした笠間の特産品を扱う人たちにも利用されており、稲田石普及の貢献者、鍋島彦七郎の石材会社の井筒屋での新年会で撮影した写真が残っている。

井筒屋昭和初期

【昭和時代・井筒屋の隆盛期】

笠間には、藩校時習館があり学者や文人が逗留したり、岡倉天心、木村武山などの著名な画家たちも笠間を訪れた際には、格式ある井筒屋を定宿としていたようだ。昭和になり、井筒屋は料理も定評で、冠婚葬祭、特に結婚式、結納式や法事にも利用されていた。

井筒屋で結婚披露宴をあげた著名な人に九ちゃんの愛称で知られる坂本九がいる。母親の実家が笠間という縁で、太平洋戦争時に川崎市から家族疎開をして数年を過ごしている。終戦後川崎に戻って青年になった九ちゃんは、芸能界に入り世界的ヒットソング「上を向いて歩こう」などで大活躍した。スターになった後も幼いころ過ごした笠間を忘れることなく、「笠間は第二のふるさとです」が口ぐせだった。昭和46年12月8日に女優の柏木由紀子さんと結婚式を笠間稲荷神社で挙げ、披露宴を井筒屋の大広間で挙げた。結婚式の写真は、井筒屋の1階から2階に上がる階段のところに展示してある。

昭和で太平洋戦争を乗り越え、高度成長、バブルの波に乗り、茨城県で開催された科学万博の頃も大いに旅館業は賑わった。しかし、交通のインフラが進み、時代の流れの中で、徐々に笠間の観光も宿泊ではなく日帰り客が多数を占めるようになってきたころ、平成23年3月11日東日本大震災で、笠間を震度6強の地震が襲った。明治に建てられた3階建ての屋根瓦はすべて落ち、客室34室、140畳敷のコンベンションホール、100畳敷の舞台付き大広間、20畳敷の小広間、大理石の大浴場、結婚式場高砂、ロビー、ホール、厨房など、井筒屋の施設は大きな被災を受けた。

創業から約180年続いた井筒屋旅館は、18代にして廃業を余儀なくされた。

【東日本大震災後・新生井筒屋の誕生】

井筒屋は、木造3階建てで中廊下を持つ大型の旅館としては茨城県下では特異な存在であった。また、笠間稲荷前の街路のアイストップに位置するという点で、景観的に重要であるとともに、近代における稲荷神社への参拝客の増加による笠間の隆盛を物語る建物として貴重な存在であった。

現在、隆盛を誇った井筒屋を知る方に話を伺うと、稲荷講の宿泊者を朝、神社から出迎えの白装束をした二人が鈴のついた杖を鳴らしながら、神社へと導いていく姿が目に焼き付いていると、また夕方には着飾った芸者が箱屋を携えて井筒屋に入っていき、夜の帳が下りるころ三味線や小唄が道にまで聞こえてきたと懐かしがっていた。その芸者衆をまとめる笠間芸妓共同組合も平成29年に解散した。

井筒屋改修前

井筒屋廃業後、被災した建物の保存について笠間市が引き受けることになった。明治13年建築の木造造り3階建てを残して、建物はすべて撤去した。残った建物を道路際から約15m後ろに曳家工事で移動した。建物前にある交流広場に、曳家前の井筒屋の大黒柱があった位置を印してある。現在ある建物には大黒柱(通し柱)が残っているので、曳家した距離感が目測できる。大黒柱は欅材である。

曳家した建物は、土台に磨きの稲田石を使い、建物の躯体は明治のままにして、さらに耐震工事を施した。道路に面した外観は、明治時代の透かし彫りの幕板を付した手摺に復元した。

建物の真ん中に中露地を施した。そこに使われている敷石は、井筒屋旅館の明治からある稲田石の露地石を再利用してある。手彫りの稲田石は、厚みがあり、ひとつ100㎏くらいあるという。対照的に交流広場の敷石も同じ稲田石だが機械で精製されたモダンな感じを受けるので、その対比をみて楽しむのもいい。

ちなみに、稲荷門前通りの車道は、稲田石が敷き詰められていて、道路標識、信号灯や門前通り商店に笠間稲荷神社拝殿並びに鳥居と同じ笠間朱色が多数使われていて、統一された景観を楽しむことができる。

井筒屋改修後

【井筒屋の現在】

井筒屋旅館は、平成30年4月1日に「かさま歴史交流館井筒屋」として再スタートをきった。

笠間市公共施設である今、1階インフォメーションは笠間の観光案内所的存在となり、また日本城郭協会の続100名城に笠間城が選定され、スタンプラリーのスタンプ設置場所となっている。

2階には笠間市生涯学習課による歴史展示コーナーを常設。笠間城のジオラマ、笠間城古地図、笠間城歴代城主や笠間の先人たちを紹介するパネル展示をおこなっている。3階は旅館当時を彷彿とさせる和室と定員60名の会議室がある。各種イベントや会議などに有料施設として貸し出している。

建物前の交流広場・後ろの芝生広場は、笠間市の行事や地域交流イベント等で活用されている。また、四季折々の歳時記に合わせた展示、つるし飾り、菊飾りを実施している。

【見どころ】

建物の中で特に注目していただきたいもののひとつに、2階3階吹き抜けの天井に展示してある「破魔矢」がある。今では少なくなった日本の文化である上棟式、棟上げの際に表鬼門と裏鬼門に破魔矢をたてる風習がこの地方にあった。表鬼門には鶴の絵が描かれた破魔矢が、裏鬼門には亀の絵が描かれた破魔矢を、上棟式後は棟梁が鶴の絵の破魔矢を持ち帰り、亀の絵の破魔矢を屋根裏に飾る。ここ井筒屋でもその風習に倣っており、亀の絵の破魔矢が曳家工事リノベーションをした際に3階の屋根裏で発見された。

他にも、井筒屋旅館で当時使われていた囲炉裏や自在鉤に鉄瓶、金庫、神棚、紫檀衝立、飾り棚をインフォメーション内に展示している。なお、カウンターは、井筒屋旅館ロビーのフロントに使われていたものを再利用している。

1階の観光インフォメーション内のカフェ「喫茶去(きっさこ)」では、月替わりの地元の銘菓と抹茶セット、コーヒーセット、和紅茶セットなど提供中。使われている食器は、全て手作りの笠間焼で、抹茶セットはお好きな抹茶碗を選ぶことができる。

明治の旅館の風情を残す建物、かさま歴史交流館井筒屋。古(いにしえ)の時を感じに、ぜひご来館ください。

破魔矢
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