師走といえば、忠臣蔵(赤穂義士)。
12月14日には笠間義士会でパレードなどの催しが行われる。
そこで、なぜ笠間に義士会があるのか、その関係を紹介したい。
高家肝煎・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に刃傷に及ぶ。
浅野長矩は即日切腹となったが、吉良義央はお咎めなし。
その結果を不服とする
大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)ら四十七士が、
紆余曲折のすえに吉良義央を打ち取った。
これが史実としての赤穂事件で、忠臣蔵の題材となっている。
この浅野長矩の曽祖父と祖父が笠間藩主だった。
つまり、浅野長矩は笠間藩主の子孫で、
四十七士のうち、
吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)、
小野寺十内(おのでらじゅうない)、
堀部弥兵衛(ほりべやへえ)の3人は笠間出身である。
この縁で、笠間では昔から赤穂義士を偲ぶ活動が行われていて、
昭和5年には笠間義士会が正式発足している。
浅野家が笠間を統治していたのはわずか23年ではあるが、
その間に笠間は大きく発展した。
それを行ったのが、長矩の祖父にあたる浅野長直だ。
次回はその長直の功績について触れたい。
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