1 近世の重要な人物
今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康の生涯を新たな視点で描くことで注目を集めている。
家康は戦国時代の最終的な勝者であり、家康によって築かれた盤石な幕藩体制は、それ以降、260年も安定した時代が続くことになる。
笠間がその家康の支配下に組み入れられたのは、関ケ原の戦いの翌年である慶長6(1601)年。それまで武蔵国騎西(きさい)城主の松平康重が、笠間城主となったときであると考えてよい。それまでは、宇都宮とのつながりが強い地域であったが、このときから笠間藩という独立した地域となったのだ。
中世から近世へ、世の中の仕組みや価値観が大きく変わっていく中で、康重は今も残る笠間の街づくりを行った。その治世はわずかに8年で、慶長13年に丹波の国へ領地替えとなったが、康重こそが、近世の笠間の歴史を作った重要な人物だといえる。
その康重の業績を紹介したい。
2 留守の水戸城を守る
松平康重の業績の一つは、佐竹氏が去ったあとの水戸を守り、水戸や笠間に平和で安定した時代をもたらしたことだ。
慶長3(1602)年、古くから常陸一帯を治めてきた佐竹義宣が、徳川家康から秋田に国替えを命じられた。
このとき康重は、徳川方が入城するまで、留守になった水戸城を守った。その役目を終えて笠間に帰ったが、佐竹氏の家臣である車丹波が水戸城を奪い返すために兵を進めていることを知らされ、笠間城下の町人も兵に引き入れて、水戸城に駆け付けた。
時は、真夏。激しい雨が降り、氾濫しそうなほど増水した那珂川をはさんで、康重の軍と車丹波の軍が対峙した。豪勇の士である車丹波は、城を取り返す思いを掻き立て、水かさが増した那珂川を渡り始めた。それを見た部下の軍勢も、一斉に川に入る。その勢いは、川の流れも跳ね返すほどで、その激しさに康重の軍は後退させられそうになるが……どうする、康重。
3 笠間の町民が免税に
水戸城を奪還するため、那珂川をはさんで松平康重の軍と対峙した佐竹氏家臣の車丹波。勢いよく、那珂川を渡り、康重の軍に迫って来たが、実はこのとき、長旅のあとで、急な流れに逆らって川を渡ったため、人馬ともに、疲労困憊に達していた。
これを見逃さなかった康重は、一挙に車丹波の軍を襲撃。多数の死傷者を出した車丹波は、剣を投げ出し、康重の前に降伏した。
こうして、水戸城が守られ、新しい城主である徳川家を迎え入れた。徳川方の監視役は康重と笠間町民の働きを高く評価して、当分の間、免税と勤労奉仕の免除の措置が言い渡されたのだ。
ここから、康重による笠間の街づくりが始まった。慶長8(1603)年、徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が成立したとき、笠間藩の領地は、旧七会村の南半分、旧岩瀬町の大部分も含め、石高は3万石となった。これだけの領地を得られたのは、康重の業績といえる。
4 花の行進で力を顕示
慶長10(1605)年、徳川家康は、2年前に就いたばかりの将軍職を息子の徳川秀忠に譲った。これは、豊臣氏に対して、徳川家が権力の中心であることを示したものだ。
秀忠は江戸から天皇のいる京都へ上ったが、その16万の兵の中に、松平康重が参加している。笠間を立って30日目ごろから、家来たちの鎧や兜を花で飾らせ、東海道を行進させた。徳川の力を豊臣に見せつけるためだが、その華やかさに沿道の人たちは驚き、見物人が大勢おしかけたというので、計略は成功を収めたといえる。盤石な幕藩体制は、こうした努力の積み上げで築かれたといえる。
また康重は、笠間の街づくりの一つとして、佐白山の北側に、侍屋敷を増設した。その木材は、近くの松や杉ではなく、遠くの山から調達した。これは、笠間城の周りに木を残し、城の守りを強くするためだったといわれている。
5 月崇寺を建立
康重の業績として、最後に紹介するのは、月崇寺である。
1602(慶長7)年、笠間城下の大町に、父親である松平康親の菩提寺として、月崇寺を建てた。康親の戒名に「月崇」の二文字が入っていることから、それを寺の名前とした。
康親は、康重が笠間城主になる以前に、徳川家康に従軍する中で死去。すでに、寺と墓を建てていた。その上で、笠間にも菩提寺を建てたのは、父親思いだったことと、笠間を長く統治する意図があったとも考えられる。今も、月崇寺本堂裏の高台に、供養のための石塔が建っている。その隣には、弟である金七郎の供養塔もある。
康重は、笠間城主になって8年目の1608(慶長13)年に、丹波の篠山に領地替えとなった。幕府が西国を抑えるための要所だ。笠間藩の基礎を作った康重は、徳川家康から重要視されていた人物であったのだ。
(どうする康重のブログ記事は以上です)
松平康重が建立した月崇寺の石塔。
右が康親の供養塔で、左の石灯篭が金七郎の供養塔。
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